八幡神社にありがとう

お仕事で数々の功績を挙げ、退職した今、これまでの人生に感謝の気持ちを捧げたいとお考えの方へ。

神社探訪をすることで神様に感謝の気持ちを伝えることができれば、第二の人生もきっと豊かなものになりますよね。

本記事では、宮城県栗原市鴬沢に鎮座する八幡神社の魅力をお伝えいたします。

八幡神社にありがとう

 

1.八幡さまに祀られる神様とは

布袋 七福神 石像

参拝者を見守る布袋様

宮城県神社庁は県内の神社931ヶ所を包括しており、そのうち八幡神社と呼ばれる神社は126ヶ所にも登ります。そのうち18ヶ所は神社名の後ろに◯◯八幡神社とつくもので、残り108ヶ所は純粋に「八幡神社」と呼ばれています。

神社本庁によれば、八幡神社や八幡宮は応神天皇(第15代天皇)や神功(じんぐう)皇后をお祀りする神社であるとのこと、神功皇后とは応神天皇の母であり武家の神である八幡神の母であると言われます。そのため、あの有名な八幡太郎義家や数多くの武士たちが崇拝していたようです。さらに鎌倉幕府が開かれてからは鶴岡八幡宮への信仰が高まり、武家の守護神として全国各地で祀られるようになりました。

今回紹介させていただくのはそのうちのひとつ、宮城県栗原市鴬沢に位置する八幡神社をご紹介いたします。主祭神は応神天皇=誉田別尊(ほむたわけのみこと)であります。この神社は「前九年の役」を勝利へ導いたとして知られる武運の神社です。

 

2.陣中に築かれた八幡神社

架木 高欄 八幡

剣のような高欄と飾り

宮城県神社庁のHPには、🔗御由緒が次のように書かれてあります。

「康平5年(1062)源頼義父子反賊追討の勅を奉じて下向当郡舘山に陣す。対塁数日に及んだが、勝敗決せず。放に陣中に当社を勧請し賊徒降伏を祈願す。時に白鶯飛来し旗上に啼いた。之れによって進撃するに大いに利があったという。よって当社をふるくは「鶯沢陣屋八幡宮と称した。元禄年中後藤平馬丞高広当地に封ぜられるに及び宮社を改築し昭和の時代までつづいたが老朽化によって平成元年新しく社殿を造営し現在に至っている。明治8年村社に列す。」

石段 鶯沢 八幡

本殿を目指し勾配のある石段を登る

現代語に訳してみます。

●ときは平安時代、後三年の役の終わりに近づいた1062年、源頼義親子は安倍貞任・藤原経清を滅ぼすべく都から東北へ下り、陣を構えました。数日間の戦を経ても勝敗は決まらず、陣中に八幡神社を勧請(神仏の分霊を違う場所に移して祀ること)して祈願しました。すると白いウグイスが飛来、陣中の旗の上で鳴いたのを見て源軍は進撃し、勝敗に大きな影響を与えました。これにより、八幡神社を古くから「鶯沢陣屋八幡宮」と呼ぶようになりました。そして元禄年間、後藤平馬丞高広がこの土地を治めるようになり神社を改築、平成元年に新しく建て替えられました。明治8年、村社として加えられるようになりました。

当時の武将たちには、陣中に御社を立てて勝利を祈願するという習慣があったようです。見知らぬ地へ赴任しその地で戦い、勝利の報告を持って帰らねばならない武将たちにとって、都の神様を勧請することは心の平安につながっていたのでしょうか。

この八幡神社の東側約200m地点には館跡があります。天文年間(1532年〜1555年)に大崎義隆の家臣である後藤平馬之允高広(栗原市の遺跡表示にはこのように表記されています)が居城した館跡であると言われています。平安時代、合戦のさなかに陣中に建てられた御社が発展し、その後、後藤平馬之允高広によって保護されてきたのでしょう。

八幡 鶯沢 後三年の役

本殿からの眺めに当時の情景を重ねる

最後に…

ここまでの長文をお読みくださいまして、本当にありがとうございます。

これまでお仕事で数々の功績や伝説を残し、日本経済を牽引されてきた方々には、遠い昔の武将たちの信仰心や覚悟、潔白に近いものがあるといいます。武運の神様を思う気持ちとて、また然りでしょうか。

山城ともいうべき険しい地形の高台に建てられた八幡神社です。車道から外れて何百段という急な石段を登り境内から下界を見渡せば、遠い平安時代のつわものたちが見たであろう景色に想いを馳せることができるのでしょう。

以上、
「八幡神社にありがとう」でした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。